「正直・親切・勤勉」
1910年、森村市左衛門が品川区の自邸の庭に作った幼稚園と小学校。近所の子供20人ほどを集めた小さな学校から、森村学園の歴史が始まりました。
創立者の森村市左衛門は、幕末から明治・大正期にかけて、日本の経済界を支えた実業家です。市左衛門は1839年(天保10年)の幕末期に生まれ、明治時代に民間で初めての日米貿易事業を開始し、やがて輸出用に陶磁器の生産と卸を行い、一代で財閥を築くほどの実業家となった人物でした。日米貿易の先駆者であり、また、日本のセラミック産業の創始者でもありました。激動の幕末から明治時代を駆け抜け、1919年の大正8年に80歳で亡くなっています。市左衛門が手掛けた事業は現在、「森村グループ」のノリタケ、日本ガイシ、TOTOなど、様々な分野にわたる企業に発展しています。
事業を育て、後継者たちを育てた市左衛門が次に目指したものは、「人づくり」すなわち次世代育成でした。60代となった市左衛門は事業を後継者たちに任せ、事業での利益を教育や社会に還元する活動を始めます。1901年(明治34年)、市左衛門は62歳のときに慈善団体「森村豊明会」を設立、慶應大学、早稲田大学などの諸大学や北里研究所などの研究機関に後援活動を実施しました。日本女子大学校(現日本女子大学)の設立時にも多大な協力をしたため、日本女子大学付属幼稚園、小学校は共に、豊明幼稚園、豊明小学校という名称になっています。日本女子大創立者の成瀬仁蔵先生とはその後も交流を重ね、協力しあう間柄となり、森村学園25周年記念冊子には成瀬仁蔵先生も顧問として写真が掲載されています。
このような活動を積極的に行ったため、市左衛門は渋沢栄一と共に「明治大正期のメセナ(文化支援)の両雄」と評されることもありました。(朝日日本歴史人物事典記載による)
市左衛門は、晩年を迎えた1910年、自宅の庭に自らが理想とする幼稚園と小学校を新設しました。これが私立南高輪尋常小学校と幼稚園であり、森村学園の前身です。市左衛門が学校を作ろうと決心したときの、こんなエピソードが残されています。
当時、豊明幼稚園で教師をしていらした甲賀ふじ先生という方がいらっしゃいました。甲賀先生は、神戸英和女学校を卒業し、アメリカに留学して保育の研究をした国際的な視野の持ち主で、幼稚園教育の先駆者とも言われた方でした。甲賀先生はしばしば森村邸を訪問され、ある時お庭の花をながめながら「花をつくるのもいいですが、人を作ることがもっと大切ではないか」とおっしゃった。この一言が市左衛門の心を動かして森村学園ができたとのことです。甲賀先生はその後、昭和2年まで森村学園の初代主事を務めてくださいました。この学校設立が最晩年の仕事となり、当時71歳の市左衛門はそれから没するまでの9年間を教育と人材育成に捧げました。
その後次男の開作が学校の土台を作り上げ、1948年に「森村学園」と校名を変更し、1980年には高輪からつくし野に移転。現在は幼稚園から高等部まで、2,000人を超える生徒が通う学園となっています。