森村学園とは
森村学園とは
歴史と沿革
歴史1「森村学園のはじまり」
幼稚園・小学校の設立 「花を咲かせるよりも生きた人間を育てたい」
1910年(明治43年)4月25日、南高輪の森村市左衛門の邸内の一角に幼稚園が誕生、森村学園の長い歴史は、その「私立南高輪幼稚園」と命名された小さな幼稚園から始まりました。同年の9月28日には、幼稚園に間借りする形で「私立南高輪尋常小学校」も開校しました。
当時の森村家は、市左衛門翁が日本女子大学校の創立に関わったこともあり、同校の先生との親交がありました。ある日、日本女子大学校付属の豊明幼稚園で主任をされていた甲賀ふじ先生が森村邸に訪れ、庭の花を愛でながらこうおっしゃいました。「花壇を作って美しい花を咲かせるのもいいですが、生きた人間を作ったほうがどれだけ楽しいかわかりません。幼稚園を作って人を育てたらいかがですか。お作りになるなら、私が何でもお世話し、お手伝いします」この言葉は、つとに教育の重要さを思い、教育事業に惜しみない援助をしていた市左衛門翁の心を動かし、学校を作ることを決意させたのです。
最初の生徒は、市左衛門翁の孫の松子らと近所の子供たち数人。初代園長及び校長は当時71才となっていた市左衛門翁。著名な実業家が邸内の美しい庭園の中に学校を作ったことが話題を呼んで大変な評判となり、新聞にも報じられました。
甲賀先生は、神戸英和女学校(現在の神戸女学院)を卒業し、アメリカに留学して幼児教育の研究をなさったという国際的な視野の持ち主で、幼稚園教育の先駆者とも言われた方でした。甲賀先生は約束通り、豊明幼稚園と兼務で南高輪幼稚園の主任を務め、幼稚園の基礎を作って下さいました。小学校の責任者である主事(校長補佐)には、日本女子大学校教育学部付属豊明小学校の初代主事の河野清丸先生が、甲賀先生と同様に豊明小学校と兼務で就任しました。当時の東京市は、小学校の校舎不足や教員不足で苦労していた時期でもあり、こうした兼務は珍しいことではありませんでした。小学校の最初の教師となった山崎芳子先生は、市左衛門が創立に力を貸した日本女子大学校のご出身でした。市左衛門翁はまず山崎先生に「子どもが小さいうちに正直・親切・勤勉の三つをしっかり植えつけていただきたい。三つ子の魂は百までといいますから」と伝えたという話が残っています。この「正直・親切・勤勉」は、やがて森村学園の校訓となり学内に浸透していきます。
豊かな自然のなかでの学校生活
初代主事の河野先生は、当時の新教育を代表する理論家・教育家として著名な人物でした。明治の後半に紹介されたモンテッソーリ教育に学び、「自動主義」を唱えて、児童の個性や生活を重視し、自然との触れ合いを重視した教育を行いました。それに続く教職員も、それぞれの専門分野で個性的な教育活動を展開し、当時の小学校ではめずらしい週1回の英語教育、実物に触れて学ぶ自然科の授業、ピアノ科、割烹科などの教科も取り入れられました。
1911年(明治44年)10月、それまで幼稚園に間借りしていた小学校の校舎が新しく完成しました。東京の小学校で最初の全館スチーム暖房付きの建物で、普通教室のほか当時ではめずらしい雨天体操場、理科室、唱歌室 、図工室といった特別教室を備えたダークグリーンの木造二階建て校舎でした。生徒の粘土細工を焼く窯も設置されていたのは、陶器産業の第一人者である市左衛門が作った学校らしいところです。校内には市左衛門の教育観を反映してロバや山羊、クジャクなどの動物が飼われ、小さな動物園のようでした。また花壇には四季折々の花が植えられ、小さな池では冬になると児童が滑って遊びました。豊かな自然と触れ合いつつ成長していく森村っ子の原点が、ここにあります。小学校校舎が完成すると、河野先生に代わって、深井虎蔵先生が主事に就任しました。深井先生は国語の先生で、森村学園校歌の作詞者でもあります。この深井先生が、昭和の初めまでの20年近く主事を務め、二代目校長の森村開作先生と二人三脚で森村学園の基礎を作られたのです。
歴史2「森村開作校長の時代~第二次世界大戦」
よいことはどんどん実践する学校へ
1919年(大正8年)、市左衛門翁の死去に伴い、次男の森村開作(七代目市左衛門)が二代目の園長・校長となりました。開作は森村組の後継者として、昭和初期の大不況や第二次世界大戦による混乱期を乗り切った実業家と知られていますが、森村学園の他にも日本女子大学や慶應義塾大学の評議員等の教育研究機関の役職を務めた教育家でもあります。日本でゴルフを始めた草分けでもあり、近代科学や機械にも関心が深く、進取の精神に富むモダンな紳士でした。良いと思うことはどんどん実行するタイプであり、この点は3代目園長の義行先生も同様で、後に森村学園の特色を問われた義行先生は「よいことはどんどん実践する」と答えたそうです。
1916年(大正5年)に始まった「自然科」の授業も、理想的な理科教育の話を聞いた開作先生の賛同により始められたものでした。これは、子供に事物を示して子供の感覚を磨き、理解力を発達させる「直観」と言われる指導方法を発展させたもので、「総合学習」の草分けともいえる内容でした。担当の簑島伊兵先生は、この教育実践をまとめた論文を発表し、全国的な評判を呼びました。教科書も担当の簑島先生の手作りでしたが、残念なことに大部分は関東大震災で焼失しています。この「自然科」は後に「直観科」に改められ、実物に触れる学習が行われました。この時代のはく製などの理科教材は、今も初等科に残っています。
開作先生が学園長になられた年には、森村学園の校歌も完成しました。当時国語の教員だった深井虎蔵先生が作詞、音楽の教員だった納所辨次郎先生が作曲を担当したもので、納所先生は当時数少ないテノール歌手であり、童謡で誰もが知っている「もしもし亀よ」「桃太郎」「お月様」等の作曲者です。森村学園では唱歌の他、課外授業で希望者にピアノも教えていました。
1923年(大正12年)9月1日には、関東大震災が起こりました。幸い堅牢な森村学園の校舎の被害は些少ですみました。しかしその前後の大正7年と昭和3年の学園前の国道拡張により、学園の敷地が削られたため、小学校は芝区高輪南町55番地の毛利男爵邸跡地に移転しました。1929年(昭和4年)に着工し、翌年に完成したその校舎は、関東大震災の教訓を踏まえて、標準よりも20%多く鉄骨を使用した3階建の鉄筋校舎となりました。当時としては最新の設備を備えたモダンな建物で、校舎のまわりには理科実習のための畑や田んぼ、花壇があり、鶏小屋には七面鳥や兎、蚕なども飼育されました。児童の向学心や研究心を刺激するために、校内に児童博物館や児童文庫を儲けられました。学年1クラス30人程度、全校でも180人ほどの、まだまだ小さな学校でしたが、生徒たちはすばらしい環境の中で、のびのびと成長していました。
第二次世界大戦勃発の影響
昭和11年2月、2・26事件を機に、時代は戦争に傾斜していきます。昭和12年日中戦争突入、昭和13年国家総動員法発布、翌14年に第2次世界大戦が勃発します。そして1941年(昭和16年)、国民学校令が公布され、私立学校は存亡の危機に立たされました。学園を存続するために急きょ「森村高等女学校」を創立し、小学校は女学校付属の「森村初等学校」となることで、廃校を免れました。学校は、財団法人森村学園となり、ここで初めて森村学園の名称が使われることとなりました。そしてその年12月、日米開戦となります。
1944年(昭和19年)、「決戦非常措置要綱」が出されて、東京都の公・私立幼稚園は休園を余儀なくされ、森村幼稚園もこの年5月から翌年12月まで休園となりました。休園中の幼稚園は出征兵士が品川から出発するための休憩所として利用されました。また、国民学校同様に、初等学校も栃木県に集団疎開を行い、児童たちは4軒に分宿して「森村初等学校疎開学園」として集団生活を行いました。また女学校の生徒も川崎の軍需工場等に動員されましたが、空襲が激しくなったために学童疎開で生徒不在となった小学校校舎を学校工場とし、これにより1日2時間の授業時間が確保できたといいます。
1945年(昭和20年)、5月の大空襲で森村学園周辺も炎上、幼稚園、森村邸が焼失しました。初等科校舎も延焼しかかりましたが、宿直の先生と近所の人の消火活動で大事には至りませんでした。その年の10月に疎開児童が帰京。12月には空襲で焼けた幼稚園も、小学校の養護室と図書館を借りて再開することができました。戦後の授業再開後には、戦時中に勉強ができなかった生徒たちの為に、高等女学校には補習コースとして専攻科が発足しています。1947年(昭和22年)、学制改革(学校教育法の公布・施行)が施工されました。森村学園はその翌年、校名変更許可を受けて森村学園 幼稚園・森村学園小学部・森村学園中学部・森村学園高等部と改称し、翌年さらに校名変更し、森村学園 幼稚園、初等科、中等科、高等科として、一部男女共学を開始しました。なお、高等女学校は学制改革により廃止されたため、森村高等女学校も昭和23年に生徒募集を停止しています。
歴史3「戦後の混乱期から長津田への移転まで」
エネルギーに満ちた戦後の森村学園
1948年(昭和23年)、開作先生が辞任され、後任の三代目学園長には、開作先生の娘婿にあたる森村義行先生が就任、戦後の混乱期の中で、伝統を受け継ぎながらも戦後の民主主義教育を推進する役割を担うこととなりました。義行先生は、第6代内閣総理大臣の松方正義の十二男で、古今を貫く学識を持った教養人でした。
昭和20年代も後半になってようやく学園も落ち着きを取り戻しました。教育活動の充実とともに、PTA、同窓会の活動も盛んになり、昭和32年に男子部PTAの主催で始められたバザーは、その後学園の一大行事として今日も続いています。また、同窓会にも常任幹事会が再編成され、会報の発行や親睦会など、森村学園ならではの親密な組織となっていきました。
開校以来共学だった中等科・高等科は、1950年(昭和25年)、男女別学の男子部、女子部として独立分離。幼稚園と女子部は森村邸跡、初等部と男子部は新坂上の校地に移り、それぞれの場所で教育活動が続けられました。そしてこの年の「私立学校法」により、翌年には財団法人森村学園から学校法人森村学園となり、現在の組織の形となりました。また、高校を卒業した生徒のための2年生の学校「専攻科」も開設されました。
校地は若干広がったものの、学園最大の問題は手狭であることでした。男子部は、高等女学校の校舎を譲り受けましたが、教室がわずか6つで、この物理的な制約の為に生徒を増やせず、また校舎も戦前のもので暗く、諸施設も他校と比べると貧弱であることは否めませんでした。校舎や施設の古さは、昭和35年の鉄筋新校舎完成、昭和38年の1階はホール、2階は図書館のある志学館完成で解消されましたが、それでも当時最大で240名となっていた男子生徒の学校としては狭すぎたのです。
そのような環境下でありましたが、男子部の先生と生徒たちには新しい学校の歴史を作っていこうというエネルギーがありました。少人数であったがために、運動部は部を超えて合同合宿を行い、また夏の合宿、冬のスキー合宿といった必修行事は受験生である高3を除いた全学年が学年縦割りのグループ単位で行動を共にしました。こうした学校生活の結果、男子部はたいへん団結心が強く、また卒業後の人生においても先輩後輩との強い絆が残りました。ちなみに昭和30年の日本の男子大学進学率は15%でしたが、森村学園男子部の大学進学率はほぼ100%でした。
一方、女子部も、戦後の貧しい時代に建てられた木造校舎であったために、義行先生の決断により、昭和44年に第1期工事、続いて46年に第2期工事が行われ、鉄筋の新校舎が完成しました。さらに引き続き他の特別教室やテニスコートといった第3期工事が行われる予定でしたが、その計画は実現することはありませんでした。
よいことはどんどん実践する学校へ
昭和45年に義行先生が逝去され、第4代学長及び理事長となったのは義行先生の長男、森村衛先生でした。森村学園には、市左衛門翁が自邸の庭に作られたという経緯もあり、その 後広げた校地もほとんどが森村家の土地で、学園に無償貸与されるかたちになっており、また、初代学長の市左衛門翁から開作先生、義行先生と3代にわたって、私財を投じて学園を援助してきたという経緯がありました。戦後に実施された財産税、また開作先生、義行先生を相次いで亡くした森村家の相続の問題もあり、森村学園は学校法人として独り立ちをすべき時期を迎えていたのです。
森村衛先生は、学園が抱える諸問題を抜本的に解決するために、森村学園の歴史で最も大変な局面の決断及びかじ取りを行ったのです。まず、森村学園の移転を決定、長津田の地に、高輪の3倍の広さの土地を取得しました。1978年(昭和53年)、横浜市緑区の長津田校舎が竣工。幼稚園・初等科・男子部・女子部・専攻科は、幼稚部・初等部・中等部・高等部・専攻科と変更され、専攻科(女子)のほかは各部とも男女共学制となりました。
幼稚園から高等部、専攻科までの学園の移転は大事業でした。オイルショックやそれに続く不況などもあり、移転先の土地の取得、高輪の校地の売却、在校生の教育保証など、問題は山積みでしたが、学園関係者の懸命な努力の結果、森村学園は長津田で、幼稚園、初等部、中等部、高等部、専攻科を持つ学園として生まれ変わりました。
10年間でこの大事業を成し終えた森村衛先生は、創立70周年の1980年(昭和55年)に退任され、新理事長として義弟の松本重一郎先生が就任しました。松本先生は水産化学の学者として、上智大学教授のほか、他の大学でも数多くの人材を育ててこられた方でした。
新しい土地に学校が根付くのは容易なことではなく、数年は入学希望者も激減しましたが、学園関係者のひたむきな努力も実り、数年で長津田に森村学園ありと知られるようになっていきます。そして平成9年には、中等部と高等部が一体化し、中高一貫校としてのスタートを切りました。その一方で、女子の大学進学率の増加を受けて、平成8年に専攻科は募集停止となり、その歴史に静かに幕を閉じています。
その後、森村義行先生の長女、森村登代子先生が平成10~16年に第6代学園長を務められました。そして2010年(平成22年)、森村学園は創立100周年を迎え、年記念事業として中高等部校舎新築とグランド改修が完成しました。森村市左衛門邸の庭にできた小さな学校は、戦災と復興の苦難、全学移転等の試練をくぐり抜け、人を大切にする温かく自由な校風はそのままに、100年後の現在、幼稚園、小学部、中等部・高等部合わせて2000人を擁する学校となっています。
沿革
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- 1839
- 創立者六代目森村市左衛門生まれる(幼名は市太郎)。
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- 1910
- 私立南高輪幼稚園開園、私立南高輪尋常小学校開校。
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- 1919
- 市左衛門死去。嗣子開作(七代目市左衛門)が園長・校長となる。
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- 1929
- 小学校新校舎を芝区高輪南町55番地に新築起工する。
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- 1935
- 創立25周年祝賀式、「創立25周年記念帳」を編纂。
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- 1940
- 創立30周年記念式典。
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- 1941
- 財団法人森村学園設立、認可。 国民学校令により森村初等学校と改称。
森村高等女学校発足。
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- 1942
- 高等女学校新校舎完成。
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- 1947
- 新学制となり、森村学園 幼稚園・小学部・中学部・高等部と改称。
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- 1948
- 森村学園初等科・中等科・高等科と改称。高等科校舎竣工。
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- 1950
- 創立40周年。中等科・高等科が、男子部と女子部に別学となる。
女子部に教養科発足。
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- 1951
- 財団法人森村学園から学校法人森村学園へ。
森村義行理事長・学園長に就任。女子部教養科が専攻科に改称。
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- 1960
- 創立50周年記念祝賀式。
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- 1970
- 創立60周年記念式典。森村衞理事長・学園長に就任。
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- 1974
- 全学移転決定。
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- 1978
- 横浜市緑区長津田町に移転開始。幼稚園・初等科・男子部・女子部・専攻科を幼稚部・初等部・中等部・高等部・専攻科とし、専攻科(女子)のほかは各部とも男女共学制となる。
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- 1980
- 創立70周年。森村衞理事長・学園長退任し、理事長に義弟の松本重一郎就任(学園長は空席)。
高輪校舎閉鎖、移転完了。
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- 1981
- 創立70周年記念式典。
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- 1990
- 創立80周年記念式典。
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- 1992
- 松本重一郎学園長就任。
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- 1998
- 金野滋理事長、森村登代子学園長就任。
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- 2000
- 創立90周年。
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- 2004
- 志立託爾理事長就任(学園長は空席)。
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- 2009
- 幼稚園ホール・学園屋内プール棟竣工。中等部・高等部新校舎竣工。
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- 2010
- 創立100周年記念式典。
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- 2012
- 松本茂理事長就任。